オースン・スコット・カードの小説、エンダーのゲームにおける、
世界観や設定についての、勝手な解説や考察など。
2014年1月 初稿
1.異星人『バガー』による地球侵攻。
人類は2度に渡る、異星人『バガー』の侵攻をなんとかしのいだ。
科学力に勝る『バガー』は強敵だった。
1度目の侵攻は、偵察的な小規模なものだったが、
2度目の侵攻は、植民を目的とした、大規模かつ徹底したものだった。
人類のIF(International.Fleet/国際艦隊以下『IF』)は、敗戦に次ぐ敗戦を重ね、
意志の疎通が一切不可能な『バガー』とは和平の道も無い。
絶体絶命の危機だ。
そんな時、『IF』の小規模な部隊の劇的な勝利が戦況を一変させ、
人類に勝利をもたらした。
人類は、かろうじてバガーの第2次侵攻を妨げる事が出来た訳だ。
しかし奇妙な事に、その戦いの過程は秘匿されていて、知る事が出来ない。
第2次侵攻から、年月が流れ、(数十年~百年くらいか?)
今まさに、第3次侵攻が迫っている。(って、言われている)
人類社会は、数々の問題を抱えつつも、対バガーと言う点では、まとまっていた。
エンダーのゲームの、スタート時点での、
時代背景とは、そういったものでありました。
2.バトルスクール。
『IF』は、第3次侵攻に勝つ為に、必勝の司令官を求めた。
『IF』の必勝司令官養成機関が『バトルスクール』である。
エンダーのゲームの話の大半は、『バトルスクール』が舞台となる。
表向きはエリート士官養成機関のようだが、
実は、唯一無二の最強用兵家(兼)天才戦術家を養成する事が目的である。
つまり、たったひとりの天才を育成する為の機関である。(と思う。)
目的の為には、あらゆる犠牲をいとわない。
『バトルスクール』のその性格が、エンダーを苦悩の底に落とし込む事になる。
バトルスクールの入学者は、『IF』が一方的に選別を行う。
世界中から優秀な子供を集めるのだが、
史上最高の戦術家兼用兵家の育成が目的なのだから、その選別は超厳しいようで。
候補に選ばれるだけで、羨望の的になる。
『バトルスクール』候補に選ばれるのは幼児期である。
選ばれた幼児は、体にセンサーを埋め込まれ、行動言動のすべてをモニターされる。
能力の他に、人類の運命を任せるに相応しい人間であるかを審査されるのだ。
エンダーの場合、3才~6才までモニターを付けられていた。
モニターを摘出して、候補から外れたと、本人にも周囲にも思わせ、
その時の周囲の反応に対する、エンダー自身の行動言動が最終審査だった。
結果、エンダーは合格するのだが、ひとつの悲劇が起き、エンダーは苦悩する。
『バトルスクール』の非情な行為が招いた悲劇だ。
ちなみに、エンダー卒業後の『バトルスクール』がどうなったか?
詳細な記述は無いのだが、
多分、普通のエリート士官学校になったと思われる。
3.サード。
人口抑制政策があり、ひとつの夫婦で、子供はふたりまでしか認められない。
例外的な第3子として生まれた子供は、サードと呼ばれ、
差別やいじめの対象にされる事もある。
本作の主人公エンダー(アンドリュー・ウィッギン)は、
サードで有るこ事と、『バトルスクール』の入学候補者であった事で、
同級生達から疎外される。
エヴァンゲリオンの『サード・チルドレン』との関連については如何に?
4.ウィッギン家の3兄弟。
長兄ピーター・ウィッギン
次女ヴァレンタイン・ウィッギン
三男アンドリュー・ウィッギン(エンダー)
兄弟の3人全員が、『バトルスクール』候補者に選ばれたほどの天才家系である。
長兄ピーターと次女ヴァレンタインは、能力的には最高ランクであったが、
ある理由から、『バトルスクール』候補者から外される。
(ピーターとヴァレンタインは、正反対の理由で外されたのだが。)
ウィッギン家の優良な家系に目を付けた当局は、
ウィッギン夫妻に対し、第3子を生む事を認める。
『バトルスクール』に進む事を期待しての事である。
認めると言っても、ほとんどそれは命令だったのではないかと想像される。
つまりエンダーは、出生からして、ある運命を背負わされていた訳である。
また、『バトルスクール』候補者を外されたとは言え、
ピーターとヴァレンタインのふたりは、
エンダーに勝るとも劣らない、天才的な頭脳を持っている。
この事は、物語上重要な事である。
5.ファンタジーゲーム『巨人の飲み物』。
『バトルスクール』の生徒達が遊べる、ファンタジーゲーム。
どんな選択をしても、プレーヤーは残酷な死に方をしてしまうという、
なんだか、あんまりファンタジーじゃ無い感じのゲーム。
果たして、エンダーはどう挑むのか?
このゲーム、物語上、結構重要です。
プレイの様子は、教官達にモニターされていて、いろいろと審査される。
つまり、生徒の適正とか性格とか、精神状態とかネ。
6.SF小説としての予言性。
SF小説というものは、多かれ少なかれ未来社会を予見するものであるとすれば、
『エンダーのゲーム』の場合は、
コンピュータとネットワークの分野でそれを実現している。
エンダーの世界では、ネットワークが張り巡らされてる。
一般の人々は自在にコンピュータを使いこなし、
電子メールとインターネットを当然のように使っている。
『エンダーのゲーム』がヒューゴー賞、ネビュラ賞を受賞したのが1985年。
執筆は、遡って数年の間に行われたと考えれば、1980年代前半であろう。
その時代ではまだ、Windows95はおろかWindows3.xすら世に出ていない。
(Windows3.xの発売は、1990年代初頭)
その時代、インターネットとか電子メールなどを知っている人などほぼいない。
アメリカですら、商用インターネットの普及は1990年代に入ってからだ。
時代背景から考えれば、インターネットが一般に普及した世界の予見は見事だ。
さらに、エンダーの世界のなかでは、
ネット上の人気コラムニストとなりネット世論を誘導し、
それを足掛かりにして政治家となり、
権力の頂点にまで上り詰める人物が描かれる。
2010年代の現実世界はどうかと言えば。
実際に、ネット世論から発展した革命がある。(ジャスミン革命)
ネット世論を統治に利用する国家まである。(近隣にそんな国があるらしい。)
オースン・スコット・カードは、30年も前にそんな世界を予見した事になる。
インターネットがまだ普及していない時代に、どうしてそこまで想像出来るのか?
凡人の我々は、ただただ驚くしか無いのである。
エンダーのゲームでは、ネット端末は、主にノートパソコンが使用される。
スマホのような携帯端末は出てこない。
2010年代の現実世界では、腕時計型や眼鏡型の端末まで出てきそうだ。
しかし、続編の『死者の代弁者』では、そういった携帯端末が予見されてる。
(不細工な腕時計型端末などより、よほどクールな形で!)
エンダーの世界では、冷戦構造と人口増加(先進国においても)が、
重大な社会問題とされている。
このあたりは、執筆された時代を引きずっている。
現実社会は、さらに複雑になってしまっている。
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